廃城令〜日本全国の城が急激に姿を消した日〜日本各地の城はなぜなくなったのかを短くまとめる

廃城令〜日本全国の城が急激に姿を消した日〜日本各地の城はなぜなくなったのかを短くまとめる

日本から城が消えた日

城が日本各地から一気に消えた出来事がありました。明治 6 年に発令された「廃城令」です。

戦国時代から江戸時代にかけて、日本各地には大小沢山のお城がありました。しかし現代では、有名な城しか残っていません。

現代では歴史的価値の高い城がどうして日本各地から消えたのか、廃城令を紐解きながら解説します。

廃城令

廃城令とは、明治6年(1873年)に明治政府によって発布された法令であり、全国の城郭を軍事的・政治的に不要なものとして破棄することを命じたものです。

全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(ぜんこくじょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせんていかた)は、1873年(明治6年)1月14日に明治政府において、太政官から陸軍省に発せられた太政官達「全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ存置ノ地所建物木石等陸軍省ニ管轄セシム」の件および、同じく大蔵省に発せられた太政官達「全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ廃止ノ地所建物木石等大蔵省ニ処分セシム」の件の総称。陸軍が軍用として使用する城郭陣屋と、大蔵省に引渡し売却用財産として処分する城郭陣屋に区分された。単に「廃城令」、「城郭取壊令」または「存城廃城令」と略されて使用されている場合が多い。

全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方 - wikipedia

廃城令の目的と背景

廃城令は、明治新政府が近代国家の体制を整える過程で発布した法令です。その目的は、江戸時代までに全国各地に存在した城郭を、軍事的・政治的に不要なものとして破棄することにありました。

背景には、明治維新によって、武家社会から近代国家への移行が進められたことがあります。廃藩置県によって藩が解体され、城の軍事的役割が失われました。藩庁となっていたお城はこれによって、事実上役目を終えました。

そして、徴兵令によって近代的な軍隊の育成が進められ、西洋式の軍制が導入されたことで、城は不要になりました。

軍制と城

西洋式の軍制導入でなぜ城が不要になるのか。を少し掘り下げておきます。

戦国時代は、大名が城主であり、その城に所属する兵(合戦時に駆り出される地元の農民含む)がいました。つまり、「城ごとに管理されている兵」でした。

江戸時代までは、各藩の大名が自らの城を拠点として、城ごとに家臣団を抱えていました。彼らは、藩主に仕える武士であり、こちらも「城ごとの兵」だったと言えます。

一方、明治政府は、徴兵令によって国家規模での軍隊の編成を進めました。これは、特定の藩や城に属するのではなく、国家に直属する軍隊です。つまり、「軍としての兵」という性格を持っていました。

この近代的な軍隊は、西洋式の軍制を採用し、全国から集められた兵士によって構成されました。彼らは、国家の命令に従って行動する兵士であり、特定の城や藩との結びつきは薄れていきました。

こうした軍制の変化により、城は軍事的な拠点としての役割を失っていきました。城ごとに兵を抱える必要がなくなり、全国的な軍事システムの中で、城は不要なものとなっていったと言えます。

廃城令の内容

廃城令は、太政官布告第 16 号として発布されました。その内容は、以下のようなものでした。

  • 全国の城郭を、軍事的・政治的に不要なものとして破棄する。
  • ただし、歴史的・文化的価値のある城は、史跡や名勝として保存する。
  • 破却された城の石垣の石材は、他の建設事業に利用することができる。

廃城令の影響

廃城令によって、多くの城郭が取り壊しの対象となりました。江戸時代までに築かれた美しい城郭の多くが失われる一方で、明治政府が目指した中央集権国家の形成を象徴する出来事でもありました。

また、城の多くが破棄されたことで、城下町の景観も大きく変化しました。武家地の多くが姿を消し、町の中心部には官公庁や学校などの近代的な建物が建てられるようになりました。

廃城令の評価

廃城令については、文化財の破壊という側面で批判的な見方もありますが、明治政府の近代化政策の一環として、一定の評価もなされています。

城郭は、江戸時代までの封建的な社会構造を象徴するものであり、その破棄は、近代国家の形成に不可欠な過程だったと言えます。また、廃城令によって解体された城郭の石材が、道路や河川の整備など、近代的なインフラ整備に利用されたことも、一つの成果と言えるでしょう。

一方で、廃城令によって失われた文化財の価値は、今日でも再評価されるべき課題だと言えます。歴史的・文化的な観点から、城郭の保存と活用を図ることは、現代社会における重要な課題の一つと言えるでしょう。

ただし、藩の財政難により城の補修ができなかったり、城主の血筋が途絶え主が不在の城は荒廃し、近づくのが危険な城も多かったのも事実でした。こういった城を一斉に処分できたのもこのタイミングだったはずです。

やさしく読み解く時代背景

全国の城が解体されていった経緯には以下の時代背景があります。

  • 明治 4 年(1871年)廃藩置県によって藩庁となっていたお城が事実上役目を終える。
  • 明治 6 年(1873年)廃城令が公布。

廃城令は、「城を廃棄しろ」ということではなく「陸軍が使用するとしたものは残すけど、それ以外は廃城するから、土地から資材まですべて売り払え。」というもの。

また、残すとされた城についても、軍事目的で使用されることが前提。石垣は壊す堀は埋める、などあくまでも実用性を重視されたため、当時の姿を完全に残している城が極めて少ないのにはこういった時代背景があります。

このように廃藩置県・廃城令によって各地の城が廃城となりましたが、後にお城の文化的価値が見直されていき、現在のように後世に残す取り組みに変わっています。