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小田原城
小田原城は、神奈川県小田原市にある戦国時代から江戸時代にかけての日本の城です。北条氏の本拠地として有名であり、豊臣秀吉による小田原征伐でも難攻不落の城として有名です。
小田原城は現在、小田原城址公園として市民の憩いの場となっています。
- 文化財等指定
- 国の史跡
- 日本100名城(No.23)
- 天守
- あり
- 営業時間
- 9:00 〜 17:00
- 料金
- 一般: 510 円
- 小中学生: 200 円
- 定休日
- 12 月の第 2 水曜日
- 12 月 31 日〜 1 月 1 日
- Wi-Fi
- 天守閣・常盤木門・歴史見聞館・本丸売店・藤棚臨時観光バス駐車場・二の丸観光案内所では無料で Wi-Fi を利用可能
- 最寄り駅
- JR 小田原駅
- 駐車場
- 小田原城址公園内には駐車場無し。周辺にコインパーキングあり。
- 小田原駅周辺駐車場一覧
- 所在地
- 〒250-0014 神奈川県小田原市城内
パンフレット
日本トップクラス!高品質な天守閣内ミュージアム
小田原城は、天守閣に入ることができます。
階段を上がると受付があり、そこで料金を支払うと天守閣へ入る事ができます。
- 一般: 510 円
- 小中学生: 200 円
天守閣は 5 階建てです。それぞれの階にて、小田原城の歴史に関する資料展示が行われています。天守閣内は改装されているため、昔の姿はなく現代的な内装ですが、館内は清潔感があり非常に綺麗です。
天守閣はとても内容の充実したミュージアムになっていて、小田原城の歴史や小田原城の工事の事など、大量の情報と資料が公開されています。
映像コンテンツなどもあり、わかりやすく、かつ、興味を引く内容になっています。
天守閣内のミュージアムでここまで内容濃く作り込まれている所は少ないです。天守閣内は撮影禁止のため、本記事に掲載できる写真はありませんが、天守閣内のミュージアムとしては日本でもトップクラスのクオリティです。
開放感抜群!天守閣最上階からの眺望
天守閣の最上階は展望デッキになっています。北には小田原市街地、東、南に相模湾、そして西側の山々などを見渡せます。
北側: 小田原駅や小田原市街地が見渡せます。
東側: 小田原城址公園の木々、市街地の建物、そしてその先の相模湾とのコントラストが美しいです。
南側: 海の先に伊豆半島が見えます。
西側: 先にあるのは箱根の山々です。
天守閣を建てる際には、近隣諸国を見渡せる場所や、その他の要素を考慮して場所を決めています。それが結果としては抜群に良い眺望に繋がっています。
大名は必ずしも天守閣に常駐しているわけではありませんが、少なくとも天守閣の最上階には、限られた人しか上がれなかったはずです。
つまりこれらの景色は、当時は大名や関係者のみが眺めることができたということです。
それが現代において公開されており、私たちも同じ眺めを味わえることは、素晴らしいことだと思います。
侍に会える!手裏剣を投げられる!本丸広場
天守閣前には、本丸広場があります。ここでは、ベンチで休憩できたり、売店で飲み物や食べ物、お土産を購入できます。
そんな本丸広場には、侍が常駐しており、一緒に記念撮影を行うことができます。
また、本丸広場には鉄砲隊もいて、昔の銃である「火縄銃」の空砲を定期的に発砲してくれます。結構すごい音がするので、必見です。
本丸広場には、露店も出ており、飲食も出来る他、手裏剣を投げることのできる催しもあるので、休憩もしつつ、色々と楽しめます。
忍者好きにはたまらない!NINJA 館
NINJA 館(歴史見聞館)では、小田原城にいた風魔忍者についての映像や資料の展示がされています。
また、忍者を体験できるアクティビティがあり、忍者好きなら必ず訪問すべきスポットです。
侍を愛しているならここ!SAMURAI 館
常盤木門の 2 階には、SAMURAI 館が営業しており、侍の武具を展示しています。
日常では決して見ることのできない、貴重な武具が展示されています。
並べられた幾つもの鎧は全てに重厚感があり、眺めているだけでも迫力があります。
甲冑を実際に着ることもできます。SAMURAI 館に行けば、あなたも侍になることができます。
小田原城へのアクセスと正面入口「馬出門」
小田原城へ入るための門はいくつかありますが、南東にある「めがね橋」を渡った先にある「馬出門(うまだしもん)」から入るのが一般的です。
馬出門は、小田原駅から徒歩で 10 分程度のところにあります。
土日祝日であれば、うめまる号という小田原市の観光バスを使っても行けます。
小田原駅からうめまる号に乗る場合、眼鏡橋バス停で下車します。(所要時間: 3分)
ガイドは二の丸観光案内所へ
さて、馬出門を抜けると、馬屋曲輪と呼ばれる広場が現れます。
ここには、二の丸観光案内所があります。
ここでは、小田原城の歴史や見どころなどを案内してくれるガイドの同行を申し込めます。
当日、二の丸観光案内所へ来て申し込めば、無料で案内してくれます。(9:00 〜 16:30)
二の丸観光案内所は昭和初期に建てられたものですので、見て回るだけでも価値があります。天守閣までの通り道にあり、トイレもありますので、是非立ち寄ってみてください。
巨大!堅牢の象徴「銅門」
順路を進むと、銅門(あかがねもん)があります。
銅門は、二の丸の正門です。天守閣へつながる門であるためにセキュリティを強化するため、非常に大きく、堅牢に造られています。
銅門は、小田原城の正門である常盤木門に次ぐ規模の門であり、小田原城の象徴的な門の一つです。
土日祝日には、銅門内部に入ることができます。(10:00 〜 15:00)
石落としが備えられています。
そしてここには、北条氏政・氏直・氏照と、重臣 2 名が議論をしている様子が再現されています。
これは、小田原評定(おだわらひょうじょう)という重臣会議の様子を再現しています。
小田原征伐(小田原合戦)で豊臣軍が攻めてきた際、北条氏側はどう迎え撃つか。という話し合いが 2 回が行われました。これを小田原評定といいます。
意見が別れ、結局結論が出ないまま北条氏は滅ぼされてしまいました。
小田原城の正門「常盤木門」
小田原城の常盤木門(ときわぎもん)は、小田原城本丸の正門にあたります。ここを抜ければ天守閣。重要な防御拠点のため他の門と比べても大きく、堅固に造られています。
常盤木門は、多聞櫓と渡櫓門を配し、多聞櫓は武器等の貯蔵庫として用いられていました。
常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれています。
この門を抜ければ本丸広場です。そして天守閣があります。私の案内はここまです。一番の見どころである天守閣へ、いってらっしゃい。
小田原城から小田原駅へ
小田原城から小田原駅までは近いので、バスに乗らなくてもすぐに移動できます。
天守閣から北入口に向かい、北入口を出たら小田原駅はすぐそこです。
小田原城の歴史
小田原城の築城は、室町時代に西相模に進出した大森氏が築いた城郭が前身とされます。城の規模や築城年は明らかになっていませんが、15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられています。
その後、小田原氏が城主となり、北条氏康の代になると、城は大きく拡張されました。小田原城が難攻不落の城として有名なのは、この拡張によるものです。
江戸時代には、徳川家康に降伏した北条氏直が、小田原藩の藩主となり、城は小田原藩の藩庁となりました。
明治時代には廃城となり、多くの建物は解体されましたが、天守閣は残され、国の重要文化財に指定されています。
全盛期の小田原城
小田原城の全盛期は、北条氏康の代であると考えられています。
北条氏康は、1560 年(永禄 3 年)に家督を継承し、関東の覇権を握ります。氏康は、小田原城を関東支配の中心拠点として整備拡張し、総延長 9km に及ぶ総構を築きました。また、城内の建造物も整備され、小田原城は関東最大の城郭となりました。
これにより氏康は、上杉謙信や武田信玄などの強大な敵に立ち向かい、何度も勝利を収めました。これは、小田原城の堅牢さに加え、氏康の優れた軍事的才能によるものでした。
小田原城が難攻不落と言われている理由
小田原城が難攻不落と言われているのは、北条氏康の時代に、総構などを築き、豊臣軍に対抗するため城を大きく拡張したからですが、具体的には以下 4 つのポイントがあります。
総構(そうがまえ)
小田原城の最大の特徴は、総構と呼ばれる広大な外郭です。八幡山から海岸まで、小田原の町全体を、土塁と空堀でぐるっと囲んだもので、総延長は 9km にもなります。これは、後に豊臣秀吉が築いた大阪城の総構えよりも長いです。
総構えは、城の周りをぐるっと城壁で囲むことで敵の侵入を防ぐためのものです。小田原城の総構えは、その広大さゆえに、敵の兵を足止めし、攻め手を削ぐ効果を発揮しました。
自然の地形の利
小田原城は、相模湾に面した丘陵地帯に築かれています。東側は海に、西側は山に囲まれているため、天然の要塞としての役割を果たしていました。
また、城の周囲には、多くの沼や池が存在していました。これらは、敵の兵を足止めしたり、水攻めにしたりするために利用されました。
城の堅牢さ
小田原城の天守は、当時としては最大級の高さを誇っていました。また、城郭の内部には、多くの櫓や門が配置されており、敵の侵入を阻むための工夫が施されていました。
さらに、小田原城には、豊富な食料や水が豊富に備蓄されていました。そのため、籠城戦を展開しても、長期にわたって戦いを継続することができました。
強者を退け、大軍に長く耐えた実績
これらの拡張で日本最大級の堅牢さを持った小田原城は、上杉謙信や武田信玄といった勇猛な戦国武将からの攻撃をも退けました。
後の小田原征伐の際も、攻め入る豊臣軍勢約 20 万に対して、小田原城の北条軍勢は約 6 万。それでも小田原城は、約 100 日に及ぶ籠城戦を繰り広げました。
これらの実績から、小田原城は、難攻不落の城として名を残すことになりました。
小田原城最大の出来事
小田原城での最大の出来事といえば、「小田原征伐」です。
小田原征伐は、小田原合戦、小田原攻め、小田原の役など、様々な名称で表現されていますが、出来事としては同じものです。
まず、前提として、当時、豊臣秀吉は、1588 年(天正 16 年)に「惣無事令(そうぶじれい)」という、大名同士の戦争を禁止した法令を出していました。この令に違反した者は、秀吉の大軍を持って包囲攻撃され一族皆殺し、そして所領は没収といった厳しいものでした。つまり討伐です。
小田原征伐の発端となった背景には、北条氏が関東の覇権を握り、秀吉の天下統一を阻む勢力として成長してきたことにあります。北条氏は、秀吉に臣従する姿勢を見せながらも、実質的には独立した勢力として振る舞っていました。
そして、1589 年(天正 17 年)10 月、北条氏の家臣である猪俣範直が、真田氏の領地である上野国名胡桃城を奪いました。この行為は、惣無事令に違反するものであり、秀吉はこれを口実に北条氏を討伐することを決意しました。
秀吉は、1590 年(天正18年)3 月、全国の諸大名を率いて小田原城を包囲し、小田原征伐が始まりました。北条氏は、約 3 万の兵で小田原城にて籠城戦を展開しましたが、秀吉の圧倒的な兵力に包囲され、3 ヶ月後の 6 月に降伏しました。
小田原征伐の結果、北条氏は滅亡し、関東は秀吉の勢力下に入ることとなりました。
エンターテイメント性、商業性共に高レベルな城。
小田原城天守閣のミュージアムは、圧巻の資料量と映像など様々なアプローチで私達を戦国時代へタイムスリップさせてくれます。
NINJA館では、忍者を体験できるアクティビティがあり、SAMURAI館では、甲冑を装備してみるこができます。
小田原の歴史、そして小田原城の歴史を楽しみ、侍になれるし、忍者にもなれる。
日本の歴史が好き、侍が好き、武士が好き、そして忍者が好き。そんなあなたには、マストで訪れるべき城です。
小田原城は、とてもエンターテイメント性の高い施設です。日本の城としてとても高いレベルの商業性を兼ね備えているので、是非足を運んでみてください。